
東日本大震災から丸14年後の本日3月11日、テレビのニュースに加え、新聞やネットにも、さまざまな特集記事があふれています。
ワタシは震災を機に新聞社を辞めました。1カ月後の2011年4月中旬から約4カ月間、岩手県遠野市で被災地支援ボランティアとして活動していた当時、日記代わりに書いていた今はなきFacebookのNOTEを読み返してみました。
自分で『平成遠野物語』と命名して、日々の徒然を綴っていたコラムの第3回『悲しきタイムカプセル』の全文を紹介します。
最後に登場する大船渡市越喜来(おきらい)は、先週まで未曾有の山火事で、再び甚大な被害を被りました。今回の大船渡の大火災報道では、越喜来以外にも14年前に何度も支援に入った地名がいっぱい出てきて、本当につらいです。
昨年来の能登半島もそうですが、その地域の住民にはまったく責のない災害に対しては「国も県も、あらゆる手段を講じて、早急に支援を実行して欲しい!」と、自分が政治家になった今も切望しています。
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<4月20日> 夜半の雪は、夜明け前にはみぞれに変わったが、テントの目の前の山は真っ白だった。 午前7時、「本日は、悪天候のため、被災地ボランティアは中止とします」。遠野市の防災無線が大音響で全活動のキャンセルを告げた。
山間部の遠野から、マイクロバスやバンを仕立てて坂道を下りて行くだけに、もし事故などがあっては…という配慮なのだ。避難所の被災者をお世話をする「足湯隊」は、予定通りに出発して行ったが、私のような屈強な男子の屋外作業(腐乱サンマ収集)は、残念ながら? なくなってしまった。
休みになったからといって、ひねもすテントで寝ているほど、ケンジ・オオイシはやわじゃない。ここは、私のノートを愛読(スルー?)している60人の友だちのためにも、3週間ぶりにジャーナリストに戻って「海岸線の被災地を巡るしかない!」。マイカーに飛び乗り、海を目指した。
まずは、昨日は市街地までたどり着けなかった陸前高田に着いた。何と言っていいのか…本当に何もない。以前、写真で見た原爆投下直後の広島市街、もしくは楳図かずおの「漂流教室」の世界が、現実のものとして目前に広がっていた。
海岸線の中心部は、郊外に比べて瓦礫の撤去が進んでいるだけに、見る者の虚無感は計り知れない。瓦礫まみれの川の土手を中学生ぐらいの少年が、肩を落としながら自転車を押して歩いていた。
次いで、大船渡市の北の外れの集落に立ち寄った。ここには、誰もいない。廃墟となった家屋や瓦礫も、ほとんど何も手が付けられていなかった。津波で壊滅状態の真新しい公民館が痛々しい。入口には「越喜来(おきらい)地区公民館」という看板が掛かっていた。
何という皮肉な地名だろう。堤防を越え、やって来たのは喜びではなく、大津波だったなんて…。建物の前に埋め込まれた石碑を発見し、胸が裂けそうに傷んだ。
石には「銀河連邦サンリク共和国 建国記念タイムカプセル 50年後の未来に捧ぐ 1987・10・31」と刻まれていた。26年後の2037年に、いったい誰が、どんな思いで、このカプセルを開けるというのか?
開ける人はいるだろう。だが、ここには、24年前の住民たちが夢に描いていた未来は…もう来ない。

御殿場市のホテルで開催された鳥澤由克(よしかつ)第123代静岡県議会副議長の就任祝賀会に参列しました!! いつも優しい笑顔が絶えない温和で謙虚なお人柄の鳥澤副議長を慕う大勢のみなさまが集結し、大変な賑わいでした!!