
本日は、父の代から本当にお世話になっている近所のSさんの奥様(享年78)の葬儀でした。
Sさんは、長年に渡り亡き父の懐刀として常に寄り添い、父の晩年には議会までの送り迎えから我が家の庭木の剪定や粗大ごみの片づけまで、何でも一所懸命にやってくださいました。
8年前の父の死後は、政治家としても人間としても未熟で情けない私と私たち家族を、私利私欲なく本当に身を粉にして応援してくださいました。
稀代の愛妻家でもありました。ここ数年大病を患った奥さまを助手席に乗せて、あちこち買い物やドライブに連れていくことを生きがいにしていました。昨年来、Sさんと会うたびに…「何かあると『ケンジは元気かい?』とか『ケンジ頑張れ!』言うんだよ! 息子の名前以外、覚えているのはアンタの名前だけなんだよ!」と、にわかには信じられないようなエピソードを伺っていました。
昨日の通夜でも今日の葬儀でも、Sさん私を見るなり抱きついて、「悲しいよー」「生きがいがなくなっちゃった」と言って、私の方に顔を埋めてむせび泣きました。。とても悲しいけれど、胸が熱くなるひとときでした。
葬儀では、西町の曹洞宗の古刹・釣学院の前住職が作成した経文本が配られて、参列者全員で読経しました。一番初めの『懺悔文(さんげもん)』というお経が、タイトルからして気になりましたが、意味が分からずモヤモヤしました。なので帰宅後、ネットで調べて現代語訳に辿り着きました。
Sさん夫妻には関係ない内容でしたが(笑)…還暦を目前にしても、いまだに煩悩だらけのワタシの胸には響きました。
【懺悔文(さんげもん)】
我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち)
従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)
【現代語訳】
私が過去に行った過ちは、全て始めもわからない深い貪り、怒り、愚かさ(=三毒)からです。それは、身体の行い、口の行い、心の行い(=三業)から生まれたのです。全てを、私は今、仏様に照らされて悔い改めます。
※貪り=淫欲、財欲、食欲、名誉欲等
怒り=自分を見失い怒りにまかせた状態
愚かさ=心が欲望におかされ道理のない状態。己の身と口と心から生じた。

葬儀終了後、祭壇の脇に並んでいた供花が花束にされて、参列者に配られました。。2束いただいて、我が家のお墓に行きました。昨日、仁田町内会でもらった一分咲きの河津桜の枝と一緒に、お墓に活けました!! この季節にはちょっとできない豪華でカラフルな供花になりました! 両親もきっと喜んでくれたことでしょう!!(*´ω`*)