遠い昔の懐かしい思い出
台風の大雨の影響で2週間延期になっていた…自民党静岡県連政務調査会の『令和7年度予算に対する市町支部要望事項のヒアリング』最終日に臨みました。
ワタシは本日も、本年度の政務調査会副会長として参加しました。午前中は下田市と賀茂郡、午後は熱海市と伊東市の要望を聴きました。熱海会場では、司会を務めました。
各支部の代表者から、津波や大雨に備えた災害対策や道路整備、風評被害を受けた観光の振興策や教育問題等々…伊豆地域の抱える数々の切実な要望を承りました。
静岡県の全35市町にある68支部の要望を漏れなく拝聴し、必要な事業を精査、吟味し、会派として県当局の来年度予算に反映させるための重要な会議を無事、皆勤できました。
移動中のランチでは、河津町の伊豆さくら亭で、生まれて初めて『わさび丼』なる丼物を盛りそばとセットでいただきました!
新鮮なワサビの根茎を自分ですりおろして、おかかと海苔と天かすを混ぜて、醤油を掛けて食べました! メチャクチャ美味しかったけど、とてつもなく刺激的で…涙を堪えながら何度もむせて、危うく戻しそうになりました!(笑)
ちなみに、こんなに1度にワサビを食べたのは…19歳の夏、LAでの『ザ・ガマン』3回戦で「米国のかっぱ巻きだよ」と騙されて、シャリ抜き&ワサビだけの『カリフォルニアロール』を食べさせられて以来、40年ぶりでした!(≧▽≦)
ペルーの>アルベルト・フジモリ元大統領(享年86)が亡くなりましたが…メディアの扱いも、総裁選&代表選真っ最中の我が国のリーダーたちの関心も、皆無に等しいことを寂しく思います。
私は、 1996年12月17日(現地時間)に、同国の首都リマで起きたテロリストによる「駐ペルー 日本大使公邸人質事件」の際、当時勤めていたスポーツ新聞社の特派員として、現地に飛びました。
天皇誕生祝賀会でにぎわう日本大使公邸に、覆面をした左翼ゲリラ集団「トゥパク・アマル革命運動(MRTA)」の14人の男女が乱入。パーティー参加者の約600人を人質に取り、刑務所に収監されているゲリラの同志の釈放や身代金の支払いを求めて、公邸内に立てこもったという大事件です。
犯行グループは、世界初の日系人大統領の誕生を機に、ペルーへの支援や交流が激増した日本と日本人の重要性や注目度を利用して、日本や国際社会にペルーにおける人種差別や貧困問題、社会格差を訴えるという大義名分を掲げて、事件を引き起こしました。
彼らにとっては「間違った社会を変える!」ための蜂起ですから当然、さまざまな要求を発信する一方、大切な人質は丁重に扱い、小出しに解放し、危害を加えるようなことはありませんでした。自分たちも生き残り、貧困層から中流階級のペルー国民の「英雄」として、社会に凱旋することを望んでいたからです。
誰1人として「死にたくない」犯行グループと人質たちとの不思議な共同生活の中で、当局とのさまざまな駆け引きや人間ドラマが生まれました。
公邸を取り囲む治安部隊の外側では、全世界から集まった記者たちが、ペルー国内を駆け巡り、事件に背景にあるペルーの社会問題を掘り下げて、連日トップニュースで報道する時間的余裕がありました。
私も単独特派員の強みを生かし、毎朝ペルーの新聞を買いあさっては情報収集。。「無事を祈る人質の家族やゲリラの妻」「フジモリ大統領の政敵になっていたスサーナ前夫人」「アマゾンのジャングルでエビの養殖を始めた元ゲリラ部隊特攻隊長」などの自宅に通って、インタビュー記事を書きまくりました。
しかし、事件発生当初から、治安部隊による強行突入を頑なに拒んだ当時の橋本龍太郎首相の要請もあり、事態はいつしか膠着化。発生から1週間がたち、2週間がたち、クリスマスも正月も過ぎて…私は事件の解決を見届けることなく、1カ月後に泣く泣く帰国しました。
結局、事件は発生から実に127日後の1997年4月22日、軍特殊部隊が敷地外から掘ったトンネルを通って公邸を急襲。71人の人質を救出して終結しました。
ペルー人の人質1人と隊員2人、ゲリラ全員が死亡するという結末でしたが、幸いにも日本人の人質は1人も犠牲にはならなかったのです。
あれから27年もの歳月が流れても、世界から戦争も紛争もテロも、貧困も差別も貧富の差もなくなりません。。そして、気がつけば、ワタシは当時のフジモリ大統領と同じ歳になっていました!!