曙さんの思い出
大相撲の第64代横綱で、プロレスラーとしても活躍した曙太郎(旧名チャド・ローウェン)さん(享年54)が、心不全で亡くなりました。
曙さんは私の恩人でした。物書きから政治家という〝言葉〟や〝感情表現〟で人々に訴えて、世間の注目や共感を集め、変化や改善を目指すという私の独りよがりの使命感のスタートは、曙さんとの出会いからでした。
今を去ること32年前の5月2日でした。日刊スポーツのスポーツ部に配属され、生まれて初めての取材で早朝、大相撲の高砂部屋単身赴き、大関昇進直前の関脇曙と、大先輩の大関小錦の三番稽古を見学して記事を書いたことが、私のライター人生の始まりでした。
鬢付け油の香りが漂う稽古場で、2人で400kgをはるかに超える大男同士の激しいぶつかり合いを初めて目撃して感動し、興奮しながらデスクに報告したことを今でも鮮明に覚えています。
しかーし、新人の私が指示された原稿量は、いわゆる『写真なし雑報』の12行。「この情景をどうやって12行でまとめるんだよ!」と内心憤慨したので、自分がノンフィクションライターにでもなったつもりになって平然と、曙の原稿を35行(笑)と小錦の雑感15行を書いて送りました。
今読み返せば…書き出しから新聞記事の体をなしていないし、最初に書かなければならない「いつ」「どこで」「誰が」「何をした」という項目がわからない酷い記事なのですが…後の鬼デスクは、記者デビュー戦のド素人の駄文を、一字一句直さずに紙面に載せてくれたのでした。
今では、誰でもいつでもSNSや個人ブログで活字になった自分の文章を全世界に自由に好きなだけ発信できますが…あの時は、インクの匂いの心地よい新聞紙に印刷された自分の記事を見た瞬間、涙が出るほどうれしかったです。
直後の夏場所では、快進撃を続けた曙さんの応援にハワイから来日した弟のランディさんや国技館を訪れる外国人ファンを取材するという大役(笑)を与えられ、連日好き勝手な応援記事を書きまくっていました。
曙さんは13勝2敗で見事、初優勝を果たし、23歳にして史上最速(当時)の26場所で大関に昇進。私ががっちり手なずけたランディ君のおかげもあり、いっぱい独自ネタといい写真をゲットできました。
私は直後に、サッカーのJリーグ担当に異動となり、その後は相撲界とは離れてしまいました。曙さんが格闘家、そしてプロレスラーに転向した2003年以降も接点はありませんでしたが…
私が故郷で政治家を志し、市議会議員なっていた2017年に牧之原市で開催された『プロレスリング ZERO 1』の興行で曙さんと再会できました。近寄り難いオーラを漂わせていた曙さんに遠慮して、遠くからタッグマッチを見守っていましたが…体調が思わしくなさそうで、ほとんど技らしい技を出さずに試合は終わりました。
数か月後、病に倒れた曙さんは7年間もの闘病生活の末、東京近郊の病院で、最愛の家族に看取られて亡くなったそうです。心からご冥福をお祈りします。