晃司は無事に出国できました
世界的なコロナ禍の中、突然の祖父の死から4日後に、次男晃司が出国することができました。
私たち家族のわがままのためにご協力、ご配慮くださったすべてのお友達や関係者のみなさま…特に㈱マキノハラボの方々のご厚情に、心から感謝いたします。
今から四半世紀も昔…25年前の今日は、私の人生の大きな金字塔、転換期にもなった大事件『在ペルー 日本大使公邸人質事件』が起こった日です。
1996年12月17日夜(現地時間)、南米ペルーの首都リマの日本大使公邸に覆面をした左翼ゲリラ集団「トゥパク・アマル革命運動(MRTA=Movimiento Revolucionario T?pac Amaru)」の男女14人が乱入。大使主催のパーティーに参加していた約600人を人質に取り、刑務所に収監されているゲリラの同志の釈放と天文学的な身代金の支払いを求めて、公邸内に立てこもりました。
当時、スポーツ新聞のゴルフ担当記者だった私は…①スペイン語が話せる ②突撃力と生命力がある ③ちょうどゴルフシーズンが終わった…という3つの理由で、その日のうちに臨時特派員に指名され、すぐに単身で現地に飛びました。
犯行グループには、日系人のアルベルト・フジモリ大統領の誕生を機に、ペルーへの支援や交流が激増した日本と日本人の重要性や注目度を利用して、日本や国際社会にペルーにおける人種差別や貧困問題、社会格差を訴えるという大義名分がありました。
彼らにとっては「間違った社会を変えるため」の蜂起ですから当然、さまざまな要求を発信する一方、大切な人質は丁重に扱い、小出しに解放し、危害を加えるようなことはありませんでした。自分たちも生き残り、貧困層から中流階級のペルー国民の〝英雄〟として、社会に凱旋することを望んでいたからです。
誰1人として「死にたくはない」犯行グループと人質たちとの不思議な共同生活の中で、当局とのさまざまな駆け引きや人間ドラマが生まれました。公邸を取り囲む治安部隊の外側では、全世界から集まった記者たちが、ペルー国内を駆け巡り、事件に背景にあるペルーの社会問題を掘り下げて、連日トップニュースで報道する時間的余裕がありました。
今と違ってネットもSNSも、スマホもノートパソコンも、デジカメさえもなかった時代です。NHKを筆頭に、すべてのテレビ局や大手紙、通信社が少しでも多くの情報を収集するために、日本から大量の記者やカメラマンを送り込んで、連日壮大な報道合戦を繰り広げていました。
たとえば4人体制なら「現場前」「対策本部」「国会前」そして「街中」に、連日人を配置できます。ハイヤーと通訳付きで。。しかし、私はスポーツ紙の単独特派員。。現場の規制線の外で座っていても、普段は何も起こりませんからネタになりません!! そこで、毎朝キオスクでペルーの現地新聞を買い漁り、独自の情報収集を試みました。。
公邸前の日常やペルー政府や警察の公式発表は通信社の配信にお任せして…私は、現地紙に載っている「無事を祈る人質の家族やゲリラの妻」「フジモリ大統領の政敵になっていたスサーナ前夫人」「アマゾンのジャングルでエビの養殖を始めた元ゲリラ部隊特攻隊長」等の特集記事を熟読しました。。
時には署名記事の地元記者に電話して教えを請い、取材現場を特定し、数日遅れで現地に赴き、似た内容のインタビュー記事を仕立てて、記者ワープロから〝音響カプラー〟で原稿を日本に送りました。フィルムで撮った写真は、ホテルの浴室内を暗闇にして、自分でネガを現像し、ミカン箱ぐらいのサイズと重さのあった巨大な〝電送機〟で、写真1枚あたり30分以上かけて日本に送りました。
人生で一番大変な出張でした。道路がまったく舗装されていないアマゾンの奥地では、出稿を終えるまでは、本当に命の危険を感じました。それでも人生で最高に楽しかった〝1990年代のリモートワーク〟でした!(笑)
日本の大マスコミの共同作業からは出て来ない独自路線のスポーツ紙的な記事は、大変な反響を呼びました。フジモリ前夫人の独占インタビューの後は、大手写真週刊誌から取材を受けたほどです。実は…彼女の長男の名前が「ケンジ」だったので、豪邸の守衛を通じて「ボクもケンジです」と猛アピールしたら、笑って歓迎してくれたのです!
当時の自分の記事のスクラップも、もうどこかに行ってしまいましたが…街角で撮影した写真の紙焼きが、数枚残っていました。
さて…肝心の人質事件は、発生当初から、治安部隊による強行突入を頑なに拒んだ当時の橋本龍太郎首相の要請もあり、事態はいつしか膠着化。発生から1週間がたち、2週間がたち、クリスマスも正月も過ぎて…私は事件の解決を見届けることなく、1カ月後に交替の先輩記者に後を託して、うしろ髪を引かれる思いで、帰国しました。
今回の義父の急逝に際し、次男にコスタリカ行きを頼んだのも、私にとっては無謀でも無茶でもなく、彼の生まれるずっと前のこういった強烈な体験があったからなのですが…
未曽有のコロナ禍の中…くしくも、あの事件発生の日に旅立った彼の不安や心細さを想うと、破天荒な父親として少し胸が痛みます。