パラ王国静岡と意次侯の秘密
2回目のワクチン接種も、極めてスムーズに、何の問題も渋滞もなく、無事に終わりました。市役所や医師会を始め、連日ご尽力いただいる全ての関係者のみなさまに、心から感謝いたします。
経過観察時間に、持参した日刊スポーツを読みました。予想通り、尊敬する大先輩による『パラ王国静岡』という〝静岡絶賛記事〟が、カラーの2面に大きく載っていました。
昨日の午後3時に先輩から相談を受けて、慌てて県の担当課や諸団体に話を繋いだわけですが…短時間の電話取材で、説得力のある検証記事になっていました! さすがです。
さて、いよいよこれから、強敵だった副反応とのリターンマッチが始まりました。日付が替わる前までは、微熱を感じる程度の軽症です。
【先見の明か? 山師か? 田沼意次の真実】
明日8日(水)20時から、NHK BSプレミアムの歴史検証番組『英雄たちの選択』で、江戸時代中期の幕府の老中にして、我らが遠州相良藩主・田沼意次侯が特集されます。将軍側近から老中にまで出世して政権を握った異色の〝江戸幕府の内閣総理大臣〟の紹介です。
日本近代史において〝賄賂政治家〟というレッテルを貼られていた不遇の時代を経て、近年は財政危機の幕府を立て直すべく、先進的な経済政策を打ち出した政治家として再評価されつつある郷土の英雄の生涯に迫ります。牧之原市史料館の秘蔵資料も登場するそうですよ! 乞うご期待!!(^^)/(⇒こちら!!)
◆田沼意次(たぬま・おきつぐ) 1719年(享保4)7月27日、江戸の本郷弓町生まれ。幼名は「龍助」。江戸時代中期の旗本、のち大名、江戸幕府老中にして、遠江相良藩の初代藩主。紀州藩の足軽から第8代将軍徳川吉宗の側近に登用された父・意行の600石を継ぎ、享保20年(1735)に、後の第9代将軍徳川家重の小姓となる。
宝暦11年(1761)、家重が死去した後も、世子の第10代将軍徳川家治に信頼されて破竹の勢いで昇進し、明和4年(1767)に従四位下に進み、2万石の相良城主となる。明和6年(1769)には老中格になる。安永元年(1772)、相良藩主に取り立てられ、老中を兼任。前後10回の加増で600石の旗本から5万7000石の大名にまで昇進し、側用人から老中になった初めての人物となった。
老中として悪化する幕府の財政赤字を食い止めるべく、重商主義政策を採る。財政は改善し、景気もよくなったが社会の初期資本主義化によって、町人・役人の生活が金銭中心のものとなり、贈収賄が横行したことなどから次第に批判された。天明4年(1784)に息子で若年寄の意知が江戸城内で暗殺されたことを契機に権勢が衰え、2年後に失脚。相良城は打ち壊しとなり、城内に備蓄されていた金穀は没収された。その2年後、蟄居中に江戸で死去。享年70。
相良藩主としては、藩政担当の家臣を置き、明和5年(1768)から11年かけて三重櫓の天守閣を持つ相良城を築城。城下町の改造、後に田沼街道(相良街道)と呼ばれる藤枝から相良に至る街道や相良港を整備。また、助成金を出して瓦焼きを奨励して防火対策とするなどのインフラに力を注いだ。家訓で年貢増徴を戒めたため、百姓が喜んだという。また、殖産興業政策にも取り組み、農業では養蚕の奨励、製塩業の助成、食糧の備蓄制度も整備して藩政を安定させ名君と称えられた。