パラリンピックの採火式
今朝は、午前7時30分から牧之原市史料館で開催された『東京2020パラリンピック採火式』に、出席しました。どうしてこんなに早い時刻だったのかというと…
ここで採火された火を、静岡市の日本平夢テラスで9時から行われる〝集火式〟で、他の34市町からの火と合わせて1つにするためです。そして、午後から浜松市、菊川市、御前崎市で聖火リレーが行われました。(※静岡市は中止、浜松市は陸上競技場内のみ)
静岡県の聖火フェスティバルは、県全体でパラリンピックを盛り上げようと、全35市町がそれぞれに地域の特色を活かした採火を行いました。その中でも、牧之原市の火は〝特に特色があった!〟と私は、断言させていただきます!!( ー`дー´)キリッ
なんと牧之原市菅山区で現在も採掘可能な『相良油田』の原油を、市内の福祉就業施設こづつみ作業所のみなさんが、金属製の〝火打ち石〟を使って点火&採火したのです!! ちなみにオリンピックの聖火は、古代オリンピック発祥の地のギリシャで採火されて、開催地に運ばれますが…パラリンピックの場合は、かなり違います。
東京オリンピック・パラリンピックの公式ホームページによると…「聖火リレーで用いられるパラリンピック聖火は、イギリスのストーク・マンデビルと開催国内各地の複数箇所で採火される炎から生み出されます。炎は、人々がパラリンピックを応援する熱意の表れとされ、実際の炎に限らず、SNS等を活用したデジタルの炎も認められています。こうして各地で採火された炎は開催都市で一つに集火され、パラリンピック聖火として、リレーの形で開催都市を巡ります」と書かれています。
どうして「イギリスのストーク・マンデビル」で採火するかというと…1948年にルートヴィヒ・グットマンという人が、第2次世界大戦で脊髄を損傷した傷痍軍人たちのスポーツ競技会を、英国のストーク・マンデビル病院で開催。これがパラリンピックの基になったからだそうです。ご存じでしたか?? 私は知りませんでした!!
さてさて相良油田は、明治5年(1872)に発見された、日本の太平洋側では、たった1カ所の油田です。原油は軽質できれいな琥珀色をしていて…世界の石油で唯一、そのままガソリンやディーゼル代わりにバイクなどの原動機のエンジンを動かすことができます。
市長の挨拶の後、油田の説明をしてくださった相良油田資料館の山崎治館長によると…明治6年から約80年間創業し、最盛期の明治17年(1884)には、手掘り井戸240カ所で600人が働き、当時の日本の産油量の約10分の1を占める年間720キロリットルを産出していたそうです。
昭和30年ごろに採算が取れずに廃井となりましたが、昭和55年に静岡県の指定文化財、平成19年には経済産業省により『近代化産業遺産』に認定されました。また、近年は週刊少年ジャンプの人気漫画『Dr.STONE(ドクターストーン)』で取り上げられ、油井の跡地である『相良油田の里公園』が、全国からファンが訪れる〝聖地巡礼〟の舞台にもなっています。
しかし、まだまだ県内はもとより、牧之原市全域でも、決して知名度が高いとは言えないこのトリビア満載のすんごい油田が、今日の採火式を機に県民に認知され…「これからもっと有名になって、アフターコロナの牧之原市を代表する観光地になったらいいなぁ…」と、寝ぼけまなこで夢想しました。(*´ω`*)
午後からは、ついに新型コロナウイルスのワクチン(ファイザー社製)の第1回目の接種を静波体育館でしてもらいました。市から7月末に届いた接種券に記載された内容に従って、普通に順番を待って、スマホで予約をして今日の日を迎えました。
初めて入った会場が珍しくて、よそ見をしているうちに、注射が終わっていました!! 正直…射たれたことにも気づきませんでした!
ワクチン接種なんて、インフルエンザも含めて大人になってから経験がないので、正直ビクビクでしたけど…献血の方が何十倍も手応え(腕応え?)がありました。。
それにしても、接種会場は極めて効率的にシステム化されていて、大勢の医療関係者や市役所の担当者、そしてシルバー人材センターの方々が、てきぱきとスムーズに指示してくださっていて、渋滞も混雑もトラブルもなく、入場から1時間ですべての行程が終わりました。本当に素晴らしかったです。ありがとうございました!!
ワクチン接種から10時間たった今…特に何も起こっていません!(笑) いや、ホンのちょっとだけ、熱と倦怠感があるような…。これが噂の副反応なのでしょうか?? いずれにしても、大したことなくってよかったです。
注射してくれた看護師さんから「今日1日は、アルコールを控えてくださいね」とクギを刺されたので、今夜は自室で、晃司がドンキでまとめ買いしてきた『インカコーラ』を飲んでいます。南米ペルーの黄色いコーラです。
今を去ること25年前!! ペルーの日本大使公邸人質事件の時に、日刊スポーツの特派員として1カ月間、リマの定食屋でこれを飲んでいました。そのころは、もっと美味しかったような気がします。あのころの私は、きっとまだガキだったのでしょう!!( *´艸`)