再建を誓う人吉旅館
川あをく 相良の町の蔵しろし
蓮(はちす)の池にうかべるごとく ~与謝野晶子
昭和7年(1932)に人吉を訪れた与謝野晶子の歌が刻まれた石碑だけが、何もなかったかのように鎮座していました。
雄大な球磨川の畔に建つ老舗旅館「人吉旅館」に伺いました。3年前の熊本地震の後、私の古巣の静岡県ボランティア協会の募集した静岡県からの市民ボランティア第1陣の20人は、活動場所の益城町周辺のホテルが取れず、75㌔も離れた人吉市のこの旅館にお世話になりました。
当時、牧之原市議だった私は、益城町の体育館に寝泊まりして活動していたため、今回が初訪問でしたが…ボランティア協会の鳥羽専務から「大石さん! かなりの被害だと聞きました。どうか様子を見てきてください」と頼まれたのです。
現地に着いた瞬間、悲しみと虚しさで胸が潰れそうになりました。晶子が褒めたたえた青い…はずの川から流れ出た濁流と泥で、 昭和初期のレトロな佇まいだったはずの温泉宿は、見るも無残な姿で建っていました。
「あの夜は、もの凄い雨が一晩中降り続きました。朝の4時に窓から川面を見た瞬間『これまでとは違う。これは危ない』と思いました」。この宿に嫁いで28年という女将さんの堀尾里美さん(62)が悲劇の始まりを教えてくださいました。
夜が明けるのが待ちきれず、内線電話で3組(5人)の宿泊客を起こし「いつでも避難できるように準備してください」と伝えたそうです。いつもは7時からの朝ごはんを6時に出してから、客と従業員と一緒に車に分乗して、高台にある高校に避難を始めた時にはもう、堤を越えた濁流が足首近くまで覆っていたそうです。
過去最悪といわれる昭和40年(1965)7月の豪雨災害でも、この旅館は大変な被害を受けました。その時の教訓を忘れないようにと、旅館の大黒柱には浸水した地上から2.1mの高さに55年間、印と説明が掲示されていました。
「だから私は、逃げる前に高価な帯とか家財道具や貴重品を、その印より上の場所に置いて逃げたんです。前回は知らないけど…『大丈夫だろう?』と思ったんです。思いますよね?」。
女将さんの目論見は甘かったのです。押し寄せた泥水は、実に前回の2倍以上! なんと4.5mの高さまで達し、1階にあったすべてのモノと思い出を飲み込み、台無しにしてしまったのです。
「それでも、全員の命が助かったからよかった。2階は畳が濡れた程度で、それほど傷んでいなません。実際は、半分以上を失って億単位の損害ですけど…『半分(の2階)は残ったんだから』と自分に言い聞かせるようにしているんです。頑張りますね!」と里美さんは、気丈に明るく言い切りました。
玄関や1階の8室や宴会場、廊下や厨房にもあった掛け軸や置物などはすべて泥をかぶったけれど、従業員や地域のさまざまな繋がりのある友人や知人が、代わる代わるにやってきて、連日10人体制で泥出しや清掃等のボランティアをしてくれています。
「本当にありがたいです。なんとか歯を食いしばって、1年後ぐらいを目途に再建できれば…」とご主人の堀尾謙次朗さん(63)も再起を誓っていました。
片付け作業も見ながら、お話を聞いている最中に、謙次朗さんの手が止まりました。前日に押し入れから引っ張り出して、乾かしていた木箱の中に、一目で逸品と分ける本物の日本刀と短刀が入っていたからです。
「おいおい! ご先祖様の誰からもこんな刀の話を聞いとらんばい。水害がなければ、知らないまま死ぬところやった」と苦笑い。もしかしたら、私は素晴らしい歴史的発見の瞬間に遭遇してしまったのかもしれません!!
信じられないことは、まだまだ続きました。名刺を車に忘れたので、取りに戻っている間に堀尾家に軽トラで現れた親子連れを見てビックリ仰天!! 昨日ご紹介した球磨焼酎の蔵元の渕田さん親子だったのです!!!!
「あれ? なんでここにもいるとですか?」
「頼まれて人吉旅館を取材にきたんです」
「どこにも行くとですね?」
「いや、渕田酒造所の次がここです。お2人は、どうしてこちらに?」
「お見舞いです。(謙次朗氏が)学校の1年先輩なので」
「僕って持ってるでしょう?? よくこういうことがあるんですよ」
「持ってますねえ!」
みなさま覚えておいてください! 大石けんじは、持っております!(*'ω'*)