バーボンのボトルを抱いて…
「すべてを失ってしまった」
人吉一番の繁華街・紺屋町で、創業明治11年(1878)の球磨焼酎製造所「渕田酒造場」は、今回の未曽有の大水害で、壊滅的な被害を受けました。
熊本県の南端にあり、険しい山々に囲まれ「日本三大急流」の1つでもある球磨川に沿って風向明媚な景色を誇る球磨地方は、鎌倉時代の初めに現在の牧之原市相良地区から源頼朝の命で移り住んだ相良氏一族が、約700年に渡って統治していました。
歴代の相良藩主の領地は、豊かな豊かな水をたたえる球磨川流域には美しい水田が広がり、寒暖の差の激しい盆地で実る他の九州の各藩がうらやむような美味しい米で、室町時代から焼酎が作られてきたそうです。
100%お米だけを原料として、球磨地方の地下水で仕込んだ醪(もろみ)を蒸留し、この地で瓶詰めした焼酎のみを「球磨焼酎」と呼ぶのです。口当たりが良く、ノド越しもすっきりしていて、和食によく合います。
現在でも27蔵もある酒造所の中でも、渕田酒造所は、最高級のモルトウイスキーにも勝るとも劣らない「40年物」や「15年物」の米焼酎を中心に、人吉の街角を探索する観光客にも人気の老舗でした。
ところが今月4日早朝、近くの球磨川と支流の山田川から一気にあふれた大水が、店舗兼酒蔵を襲いました。敷地内にあったすべてのタンクは横倒しになり、樽はこぼれ、壺は割れ、酒瓶はすべて水浸しになりました。
その被害は2300石。一升瓶換算で実に23万本分の原酒や商品が、すべて台無しになってしまったのです。もちろん、酒造りに必要な機材や高価なポンプやホースも、使い物にはなりません。
「被害総額? 5億円ぐらいかな? 本当すべてがなくなってしまいました。もう一度、やり直したいけど…もう二度と、ここでは怖くてやれない。そのぐらいのショックです」と店主の渕田将義さん(63)は、うつろな表情で、異常気象が日常になった日本の現状を嘆きました。
実は、今回私が酒造所を訪れたのには、ある目的がありました。ここ数年、牧之原市の商工会が旗振り役となって、市内の酒屋や飲食店で縁の深い友好都市・人吉の球磨焼酎の普及が進んでいるからです。
「今回、被災された酒蔵のお酒で、少しぐらい濡れたり、ラベルが剥がれたりしたものでも構わない。美味しい焼酎を牧之原市が、まとまった数を引き受けようじゃないか!」という本杉商工会会長の意向を伝え聞いて、その可能性を確認しに行ったのですが…
「そうですか? それはありがたいです。でも、申し訳ございませんが…売ることも、差し上げることもできません。それは酒蔵のプライドです。泥水を被ったお酒をお出しして、万が一にも問題が発生でもしたら、僕たちはもう生きていけません」と跡取りの長男・将(しょう)さん(25)が、きっぱりと言い切りました。
「静岡のみなさん! どうか、この蔵の…いやこの街のすべての蔵元の再建を祈ってください。もしできれば、支援もしてください。何年か後にもう一度、同じ焼酎が完成した暁には、自信を持って必ず、みなさんにご提供します!」。
別れ際、渕田父子から1本のラベル無しの琥珀色のボトルをいただきました。今回被災した樽で作ってあった30年物のトウモロコシの焼酎でした。
「これも水に浸かったんだけど、あなたに差し上げます。〝旅愁バーボン〟という銘柄で人気でした。あっ! でも、決して飲まないでくださいよ。お家に飾っといてください。私たちのことを忘れないでくださいね。復活した時に、新しい酒と交換しますから」。
「旅愁…バーボン…か?」。私は、自分が沢田研二にでもなったかのように、キザなポーズでボトルを抱いて、晴れ間の見えた空を見上げました。涙がこぼれないように…。
今年創立60周年を迎える名門の人吉ライオンズクラブの竹原輝紀会長(79)に、榛南ライオンズクラブのMC・L情報IT委員長を務める私が、鈴木徹会長の名代として、先日の初例会で集まった災害見舞金12万9000円を手渡しました。
自宅兼店舗の美容院が2階まで水に浸かってしまった竹原会長は「不思議な縁のある静岡県のみなさまから思いがけないご支援をいただき、感謝感激です。ありがとうございました」と声を震わせ、何度も何度も頭を下げてくださいました。