富士山静岡空港10周年
『富士山静岡空港開港10周年記念式典』に、県議会議員として出席させていただきました。
2009年(平成21)の今日も、同じような曇り空でした。私は、式典を取材する記者兼カメラマンでした。あれから10年、当時の父と同じ立場(肩書だけですが…)で参列を許され、感慨のあまり泣きそうになりました。
しかーし! 朝から興奮していたせいか…スマホを家に忘れました。なので、今日の写真がありません!!(笑)
先ほど帰宅して机の中のフラッシュメモリーを引っ張り出して、10年前に紙面で使った写真を見つけ出しました。空港を完成させるため、立木問題の解決と引き換えに辞職を表明された石川前知事が、顔見知りの私に送ってくださった最高の笑顔です。
「喝水不忘掘井人」(水を飲む時には、井戸を掘った人を忘れない)という中国のことわざを思い出しました。
父の10年前のブログをコピペします!
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【6月4日(木)】
ついにこの日がやってきました。
早朝5時に起床して朝食をとり、支度をして家を出たのが6時15分。記者をしている長男の車が、私の後を追うようについてきました。
吉田榛原ルートを坂部側からアクセスし、空港のターミナルが見えてきたときは、いいようのない胸の高まりを覚えました。
用意された第5駐車場に車を入れて、ターミナルに向かう途中で、多くの顔見知りの地権者と出会いました。
皆、一様に、年輪を刻んだ顔をほころばせて・・・、「よかった、よかった!」と声を掛け合い、握手をしていました。
「なんてったって22年だもんな~」
「おら、空港を見れんかと思ったっけや」
「大石さんも、ご苦労さまでした」
当時大反対だった地権者のこの言葉が、何よりもうれしく感じました。
午前7時15分、空港開港式が始まりました。すべての障害を取り去り、辞職の決意をしてこの日を向かえた石川知事の表情は、明るくさわやかでした。
何度も挫折しそうになりなりながら、逆風を跳ね返して開港にこぎつけたことの所感と将来への期待を述べた後、石川知事が一句披露しました。
難産の末に生まれし子に似たる
静岡空港 いやさか願う
文学的にどうかは分かりませんが、空港にかけた石川知事の気持ちが伝わってくる立派な一句(短歌?)でした。
祝辞に立った県議会の浜井議長が、空港利活用推進議連の活動の紹介をする中で我々を立たせて、一人一人紹介し、地元町長として大苦労して用地取得に奔走した大石さん・・・と言われ、場違いだけれどありがたい・・・と思いました。
代表者によるテープカットとクス玉割りがあり、式典を終了しましたが、その後は、見学者、報道陣が入り乱れるように交換し、取材がありました。
そして、午前8時40分(正確には、もう少し経過したかな・・・)福岡行き日本航空便が、満員の搭乗客を乗せて離陸しました。
滑走路の中ほどで地上を離れ、あの立ち木のあった場所あたりでは、もう数百メートルの高さまで上昇していました。
待ちに待ったこの瞬間に到達し、歴史の証言者になれたことで安堵するとともに、過ぎし22年が思い出され・・・涙しました。
全日空、アシアナ航空、大韓航空のカウンターでは、以後の便に乗るお客さんが列をつくって手続きをしていました。
「ああ、今日からはこうした風景が、日常茶飯事になるんだ」と、再確認した上で、目標どうりの大勢の来訪客でにぎわうことを、強く心に念じました。
空港を辞し昼前に県庁に到着し、午後0時半から市内のホテルで、福岡県知事主催の福岡県使節団の開港記念交流会に出席し、今後の交流を誓い合いました。
そして、今夜は午後6時からは別のホテルで、運行航空会社による就航記念祝賀会です。
今日は、空港一色ですが、なにとぞお許しください。
なお、このブログは、いつもの家のパソコンでなく、私にとっては大冒険の・・・買い求めたノートパソコン(県庁)から、イーモバイルを使っての遠隔投稿であります。
これからは公務での出張が多くなりますので、ノートパソコンによる遠隔投稿にトライすることにしました。
70歳の手習いですが、うまくいくか・・・どきどきしています。
令和元年度『浜岡原子力発電所安全等対策協議会総会』にご招待いただきました。
原発のある御前崎市と周辺の牧之原市、菊川市、掛川市の首長や議員、各種団体の代表がメンバーとして、定期的に発電所の安全対策等を監視、確認する協議会です。
本日は今回の選挙で、4市で5人と増えた県議会議員のうち、3人が出席しました。改めてこの協議会には、牧之原市民の県議会議員は絶対に必要だったことを実感しました。