飛行場と空港
<「搭乗者500万人達成記念セレモニー」のテープカット(空港公式FBより)>
本日5月4日、富士山静岡空港では『搭乗者500万人達成記念セレモニー』が開催されたそうです。2009年(平成21)6月4日の開港から約9年。
開港前の需要見込みは下回ってはいるものの…今では地元の我々はのみならず、静岡県民にとってはとても身近で使いやすい、駐車場無料の便利な国際空港になっていますよね? ちなみに、2016年の乗降客数(国内線+国際線)は、日本全国の91空港の中で40位!! 着陸回数は、4710回(国内線+国際線)で、ヘリポートを含めた全国115空港中42位だったそうです! 大健闘じゃないですかね?
特攻隊員の悲劇が描かれ大ヒットした映画、ドラマの『永遠の0』は、牧之原市内でも撮影が行われました。そして、今大会の舞台となる牧之原台地には、その実話ともいうべき「悲しき航空隊」が存在していたことを御存知でしょうか?
牧之原区布引原には戦時中、日本海軍が偵察機の搭乗員を育成するために編成した「大井海軍航空隊」がありました。現代の富士山静岡空港の南西約4㌔、東名高速相良牧之原IC北側に広がる牧之原台地の茶畑を接収して作られた敷地面積297.5㌶、滑走路の長さ1300㍍X250㍍の飛行場で、全国から召集された生徒・学生・練習生が実機訓練を行っていたのです。
太平洋戦争開戦を目前に、対米英戦備の大増強を目指した帝国海軍は、1940年(昭15)2月、当時の4村(六郷、河城、勝間田、萩間)の村長と地権者を前に空港建設を通告すると…翌月にはもう、当時の牧之原小学校を含む敷地内の約200戸に、わずかな補償金で立ち退きを命令。たった2年間で完成させました。
しかし、戦局の悪化と国力の衰退で、航空隊はやがて「神風特攻隊」の養成基地へと変貌。全国から召集された未成年の「偵察専修生」たちは、わずが数カ月の訓練を終えると、次々に南の海に散っていったのだそうです。
連日の空襲で施設は壊滅的な被害を受けながらも、細々と訓練は実施されていましたが、終戦で武装解除。わずか3年の稼働だけで、航空隊は元の茶畑に戻りました。写真の「大井海軍航空隊之跡」の碑のすぐ近くにある牧之原区コミュニティセンターには、当時の地図や写真や資料、そしてエンジンや車輪などの貴重な部品が展示されています。