意次侯の威光を訪ねて
牧之原市ゆかりの〝歴史上最大の有名人〟といえば…江戸中期の老中で、遠州相良藩主だった田沼意次侯(1719~1788)に他なりません!
長年、日本史では「賄賂と言えば…」と真っ先に語られる悪辣政治家の代名詞のような扱いを受けてきた意次侯ですが、地元も地元の相良では、まったく違った名君として地域住民から称えられる存在ですよね?
田沼家は紀州徳川家に仕えた旗本でした。徳川吉宗が将軍になると幕臣となり、若き意次は後に第9代将軍となる徳川家重の小姓に取り立てられ出世街道を歩み始めます。この時点でもまだ600石でしたが、家重の将軍就任で江戸城の本丸勤務に栄転。13年後には1万石の大名、さらに14年後には。今でいう総理大臣の「老中」にまで昇進し、5万8000石の相良城主に任じられます。
老中意次は、幕府の財政赤字を食い止めるべく、重商主義政策を採用。相場や作付の変動で収入が不安定になる米中心の経済を改め、貨幣(小判)を普及させて、安定的な財政運営を目指しました。
印旛沼干拓による新田開発。株仲間を奨励し運上金・冥加金を税として徴収する財政改革。専売制の実施、鉱山の開発や蝦夷地の開発計画の推進などなどです。。相良藩では地場産業を奨励し、年貢率を低くして民衆には喜ばれました。
なのにどうして、息子が暗殺され、後ろ盾だった将軍の崩御を機にあっという間に失脚し、火山噴火や異常気象による飢饉による不況にまで…全責任をおっかぶされてしまうまでになってしまったのでしょうか?
まあ、つまり、近代的な貨幣経済や商業重視の政策を最優先したことで、その恩恵を受けられなかった対抗勢力の妬みを買って「江戸の商人ばかり重用する大悪人」として贈収賄疑惑を押しつけられたということですね。 古今東西、政治の世界には裏があり闇があり…大胆な改革には痛みが伴います。正論や理想論を声高に唱える人は叩かれます。いつだって、社会に不正や癒着、談合や忖度はあるのに、意次侯ばかりが後々悪く言われてしまったのは残念なことです。
大沢区にある曹洞宗の名刹・般若寺には、1767年に意次が、相良城築造を命ぜられた際に、江戸の「お太鼓師」に作らせた最高級の太鼓が残っています。重厚で美しい音色で「背負ったか(しょったか)相良の陣太鼓」と呼ばれた逸品でした。
残念ながら、今では太鼓の一面が30㌢ほど刃物で切り裂かれてしまっています。 大正時代「陣太鼓の中には、田沼の金塊が詰まっている」という伝承を真に受けた泥棒の仕業なんだそうです。この辺りにも〝賄賂政治家〟の汚名を着せられた意次侯の悲劇が垣間見られますよね?
来年2019年は、意次侯の生誕300年! 牧之原市では、地域の名君を偲ぶイベントが計画されています。どうかみなさんも…経済改革で庶民に富をもたらし、文化を保護し、江戸時代の蘭学や医学の進歩にも著しく貢献した郷土の名君・田沼様の威光の数々を再確認するためにも…どうかみなさん!! 6月10日(日)は『牧之原グリーンティー・カップ2018』にご参加ください!!
1月末に、市内で大変な交通事故に遭ったペルー人のおばあさんは、今も目覚めず入院中ですが…昨日から2日間にわたり、関東から親戚が3人、荷物の整理のめに来牧。。私は初めてお会いできました。とてもしっかりした礼儀正しい人たちで…少しだけ肩の荷が下りました。