朋あり。遠方より来たる
朋あり。遠方より来たる。また楽しからずや
今でこそ、1年のほぼすべての時間を大好きな故郷で過ごし、国際交流とか国際政治とかには無縁の生活(…家庭内国際紛争は頻繁に勃発しますが…(笑)) を送っている私ですが…20代、30代にはプライベートでは中南米を放浪したり、仕事では5大陸を飛び回ったりしていた国際派青年でありました。
あのころは政治家になろうとは、露ほども思っていなかった私ですが…今振り返るととっても真面目な若者で、グアテマラやキューバ、コロンビア、ベネズエラといった我が国のマスコミの論調では…いわゆる『物騒な国』に行った時ほど、その国の人たちと白昼堂々と真剣に国際政治や経済の話を交わしていたように思います。ペルーの「日本大使公邸人質事件」の時などは、その際たるものでした。
日本のようなほとんどの国民が、自分たちの生活レベルを『中流』以上であると認識している先進国とは違い、発展途上国の貧しい国々では、その国の政府(=特権階級)やお金持ちの思想や意見は、庶民のそれとは全然違います。ですから、日本の大臣や商社マンが親交を深めたり、商談を交わす相手は、確かにその国の代表者ですけど、その国の一般国民の声や利益を代表する人たちではありません。
何を言いたいかというと…そういうちょっと難しい国々の社会情勢を理解していないと、今のこの混迷深まる、戦乱や内戦の絶えない世界各地の悲劇の元凶や真相を「われわれ日本人は見誤ることになるんだろうなー」と、今ふと思ったわけです。(偉そうにすみません!)
そして、そんな大上段からの前振りとはほとんど関係ありませんけど(笑)…今よりずっと若くて、もっとバイタリティーにあふれていた私が、妻とともに20年以上前に知り合った大親友のイタリア人のトゥーリオとコロンビア人のパトリシア、そして9歳のマヌエルの一家が昨夜から、牧之原のわが家に遊びに来てくれています。
本日は、車やバイクのデザイナーとして活躍中のトゥーリオの希望で、吉田町の津波避難タワーをスタートに、富士山静岡空港(+石雲院)、そして浜岡原子力館、御前崎灯台(+津波避難タワー)と巡って、最後は回転寿司で締めました。(笑)
3.11以降、欧州では、福島第一原発の事故を日本よりはるかに深刻かつ重大にとらえ、市民レベルでも激しい議論がなされています。職業柄、「安定的なエネルギー確保の必要性はとても理解している」というトゥーリオは、今日のツアーを終えて言いました。「イタリアで言われているよりはずっと、静岡の自治体や原発の津波対策はしっかりしているとわかったよ。でも、どんなにしっかりとした対策をとっても…もしも避難タワーや防波堤より大きな津波が来たら、どうしようもないことは確かだよね」と…。
さらに「日本と同様にイタリアでも、政情不安な中東の石油や、プーチンが意のままに扱えるロシアの天然ガスに頼ってはいけないという世論が強い。だから、原子力発電を一気にゼロにすべきという声は、すべてじゃない。ただし、従来の石油や石炭の発電の割合を減らすため、太陽光や風力などの自然エネルギーも大至急、もっともっと開発していくことが大切だと痛感したよ」と続けました。
私が「国際政治には無縁だもんね~」とうそぶいているうちに突然、ど真ん中に160キロの豪速球を投げ込まれたような気がして、とても戸惑いました。彼の『正論』こそが、われわれ日本の政治家全員が、もっと真剣に考え、実現に向かって努力しなければいけない命題であると自戒しました。
そして、久しぶりに、イタリア語とスペイン語の入り混じった難しいテーマの熱い会話を、一日中続けていたので…今、頭の中がオーバーヒート寸前のスマホのように煮立っています。
◆有朋自遠方来、不亦楽乎(朋あり。遠方より来たる。また楽しからずや) 「論語」の「学而編」の中にあり、人生の最高の楽しみの1つは、仲のよい友人とともに酒をくみかわし、歓談することであるという孔子の人間味のあふれた言葉。遠い場所から訪ねて来た親友と久しぶりに近況を報告し合ったり、意見を交換したりするのは、人生の大きな楽しみであると同時に、人生そのものを豊かなものにするという意味に使われる。